沖縄〜 パライバブルーな季節風

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zoom RSS 日本画家 田中一村という人(1)

<<   作成日時 : 2012/04/13 00:08   >>

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 初めて 田中一村 (たなか いっそん) という 一人の画家の その生き様を知って、、
 熱いものを飲み込んでしまって どう消化していいのか 分からないような気分です。


画像


 こんな方が ほんとに居たの・・・
 ドラマの脚本でも書けないような人生・・・

 人として不器用だったのでしょうか?  正直過ぎたのでしょうか?  
 自分以外のものを信じられなかったのでしょうか?
 満足して逝ったのでしょうか?


 眩しい光を放つかのような 残された作品の数々と、作者の人生が なかなか頭の中で合致しません。



 50才でたった一人奄美に渡り、小屋のような家で、 (今ならまだしも)あの時代に 神様にしか描けないかのような作品をたくさん残して、無名のまま逝ってしまった田中一村という人を 私はまだちょっと消化しきれないでいます。



 明治41年(1908) 
  現在の栃木市に生まれる。

 大正 4年(1915)  
  8才 彫刻師の父から 「米邨(べいそん)」 の号を
  与えられる。  神童と呼ばれる。   
 
 大正15年(1926) 
  18才 東京美術学校(現在の東京芸術大学) 
  日本画科に入学するも、6月には退学。
  「田中米邨画伯 賛奨会」 国民新聞社講堂で開催。 

 昭和 6年(1931)
  23才 写実風な作風に変化していくが 支援者からは
  賛同されず、その後 支援者と絶縁したという。

 昭和22年(1947)
  39才 雅号を 「柳一村」 に改める。 
  川端龍子主催の 青龍展に 「白い花」入選。


 昭和23年(1948) 
  40才 青龍展で 「波」 が入選するも、自信作の 「秋晴」
  が落選したことに納得できず 「波」の入選を辞退する。

 昭和33年(1958)
  50才 団体展に出品するも悉く落選、 奄美行きを決意する。

 昭和37年(1962)
  54才 奄美大島名瀬市の紬工場で染色工として働き始める。
             

 昭和50年 67才まで、数年働いては 生活を切り詰め画材を購入し、数年を絵画制作にあてる、という生活を繰り返す。


 昭和52年(1977)
  69才 心不全で倒れ 逝去


 

 昭和23年、青龍展での入選辞退の後、精力的に団体展に出品していますが、全て落選しています。

 この時代、一村のように、派閥に属していなかったり 門人でない画家は 正当な評価を受けにくかったようだ、と聞きました。

 孤立ばかりが目立つ人生のようですが、救いなのは、奄美で、本当に描きたいものに出逢ったということです。

 没後、2年を経て やっと存在が知られるようになりました


 奄美で描かれた作品は、一村の 衰える事なかった情熱を物語っているようです。


                
 参考 : 『 図録 田中一村展〜琉球弧で開花した美の世界〜 』 沖縄県立美術館

 

          

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
田中一村!!バライバさんと興味の赴くところが一緒です。もう何年前だろう、NHKが初めて田中一村を取り上げて、展覧会が開催されたとき衝撃を受けました。正統派の絵から独自の画風に到達する過程が、あんなに厳しい人生で培われたのかと思うと粛然とします。今回は関西に巡回しないので残念です。
ままりん
2012/04/15 16:21
今回の展覧会は、沖縄本土復帰40年を記念したもので沖縄県美だけの開催のようです。
私は今回の展覧会で初めて田中一村の存在を知りました。作品も初めて観ます。特に奄美で描かれた作品には ただただ見入ってしまいました。
パライバ
2012/04/15 23:59

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